開山和尚 鉄眼道光禅師像(金禅寺蔵)

 抑も当寺は漢文十一年大阪難波瑞龍寺(通称てつげん寺)の開山鉄眼禅師が開かれた 八ヶ道場の 一ツであります。当寺の前身は今を距たる天平年間行基僧群の開創に咸る七 堂伽藍を倶備せる大刹にて往時のかなでら千坊の威容を誇ったものと伝えられます。

 当時この地は上總国(千葉県富津市)飯野藩主保科禅正忠公(二萬石菩提寺は千葉の 浄土宗浄信寺)当地一帯の所領なるを以て(豊中市新免勝部小曽根走井)当時大 和尚 にはかり堂字の再建尊像の重装など完成し金寺に禪の一字を加え「金禅寺」号を「大應 山」と称し京都宇治黄檗山万福寺の末寺に属しめました。

 同師の受業師大阪難波鉄眼道光禅師を中興開山(第一代)に迎え次いで本師宝州道總 禅師を第二代に大 禅師を第三代としました。

 爾来寺運隆々久しかったが文化三年正月五日、本堂を残し開山堂経藏参禅堂庫裡など すっかり焼失し十三代活禅和尚の時再建しました。明治に至り大担君保科氏の家祿奉還 に遭い以来無祿寺となり今日に及んだもので当寺には保科家一族の御位牌のみ安牌して あります。

   本尊十一面観世音菩薩(府有形文化財、正安二年七月十二日、約六百八十年鎌倉前期) は秘仏にて御丈五尺に余り其の端麗美妙なる容姿を今に伝えており胎内には観音経一巻、 心経一巻外、重装大悲像記(てつげん遺祿に在り)及び願主尊信外多数の施主名が墨書 内蔵してあります。

 亦脇侍仏の獅子文殊菩薩像と白像普賢像は共に元禄十一年寅三月吉日の作であります。 本尊十一面観世音菩薩像は度重なる天災戦禍にも難を免れ給うたもので当寺の南方数十 米に在る観音池(現観音池公園)の池底より光明赫炎と出現し給うた霊像でありまして 古今霊応空しからず彼の大慈大悲の観世音菩薩を一心に念ずれば、この世の中の全ての 苦悩は広大無辺の観音妙智力を以って即時音声皆得解脱すること福寿海無量であります。
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